「2020年に大学入試が変わる」という話は、大きく報じられ、教育関係者のみならず多くの方が注目している話題です。では、具体的に大学入試はどのように変わっていくのでしょうか?第一回目の記事(センター試験はなくなるが、改革は中途半端に終わる可能性も)、第二回目の記事(なぜ、試験制度が大きな社会的価値を持つようになったのか?)に引き続き、NPO法人教育支援協会の代表理事・NPO法人全国検定振興機構の理事長を務められ、長きに渡って日本の教育改革の最前線で取り組まれてきた吉田博彦さんにお伺いしました。
 
吉田博彦さんは、1999年より全国組織のNPO法人教育支援協会・理事長として民間からの教育改革を提唱し、文部科学省や教育委員会との協力によって、全国で様々な教育事業をおこし、地域教育力の育成を行ってきました。中央教育審議会専門部会委員、文部科学省コミュニティースクールマイスター、文部科学省放課後子どもプラン推進アドバイザーなども務められてきました。2015年からは、大学入試改革に向けて、民間の検定試験の「質」と「信頼性」を判定するNPO法人全国検定振興機構・理事長に就任されています。
 
 
テストを行う側の都合が優先される主客転倒の議論

前回は、テストという文化についてまとめてみました。 その結論は、「テストによる選抜」という手法は、古代の中央集権国家の成立時の歴史的要求に適合してその効果を発揮し、直近では、大量生産を使命とした近代工業化社会の形成期という時代に、特に適合的であった「手法」であり、テストというものを絶対視する一つの「思想」だったということでした。

では、今後の新たな時代やその時代を支える教育に「この思想」、「この手法」は有効なのでしょうか?今回はこの問題について整理していきたいと思います。

今回の大学入試改革の議論を担う人々の中でも、選抜手法として「信頼」が付与されるテストは、「同一日時・場所、同一問題」で実施されるテストであることが必須条件で、それが客観性を担保するものだと思われています。つまり、「そうしたテストだから公平で、不正は行われにくく、テストだから入学者の選考に情実がはさまれることが無い」ということのようです。これは日本社会の多くの人々の「常識」でもあると思います。

これに大学入試を実施する側の都合が付け加わります。つまり、そのテストはできるだけ簡易で、採点労力をあまりかけずに迅速に処理され、できれば大量一括処理がありがたいというものです。そこで編み出されたものがマークシートでの処理であり、偏差値などを活用した序列化です。

そうすると、従来の教育を新たな時代に対応した教育に変えるために、たとえば英語教育では「話せる英語教育」にしていくために、「聞く」「話す」を重点に置いたものへ変更しようとしても、英語のヒヤリングやスピーキングなどは「同一日時・場所」での実施が困難で、大量一括処理ができないため、「公正なテストをやるためにはヒヤリングやスピーキングのようなテストは行わない、行えない」という結論になってしまいます。

これが今の大学入試改革議論の中で本当に出てきている提案で、新しい時代に対応した人材育成のために教育のあり方を変えることが大切だという目的よりも、実際にテストを行う側の都合が優先されるという、主客転倒の議論になってしまっています。

 
なんのためにテストを行うのか?

ここで問題点を整理してみます。よく知られているように、米国などの大学入学者選考は各大学のアドミッション・オフィスが中心となって、入学希望者の学校成績や活動成果、SATのような外部学力テストの成績表を選考資料にして、面接などを繰り返して入学者を決めています。欧米の一流校では、「入学者1人の選考コストは約25万円」といわれるような費用をかけて選考を実施しています。

SATのような外部学力テストも複数回受けられますから「同一日時・場所」で行われるテストではなく、当然のように「同一問題」のテストでもありません。大学入学者に求める能力を図る必要があれば、それに適したテストの結果を提出させ、口頭試問を大学入試として実施するのも当然のこととして実施されています。

そこには入学者選考におけるテストに対する基本的な考え方の違いがあります。欧米では「どれだけ公正なテストを行うか」よりも、「我々の大学の入学者に必要な能力とは何か」を優先し、その能力を測定するためのテストを活用するという考え方が基本にあります。公平性や公正性というのは絶対的なものではありません。もちろん、欧米でも昔からそうした考え方が一般的であったわけではありませんし、欧米の一流校ではない大学では、日本と同じような入学者選抜を行っているところもあるのは事実です。
 
世界中で考えられている教育内容・方法の変化の必要性

しかし、これからの新しい時代に向けて、つまり、工業化社会から脱工業化社会、ポスト産業化社会に向けて、教育内容・方法の変化の必要性は世界中で言われています。そして、そのためにはどのような教育が必要なのか、その教育を実現するためには「どのような入学者選考が必要なのか」という議論が起きているのは日本だけではありません。

「今の子供たちの65%は、大学卒業後、今は存在していない職業に就く」、「今後10~20年程度で、約47%の仕事が自動化される可能性が高い」、「2030年までには、週15時間程度働けば済むようになる」という「来るべき未来像」は、今回の日本の大学入試改革や学習指導要領の改訂の枕詞となっていますが、これは世界中でやっている議論です。こうした「来るべき未来像」に向けて、どのような人材育成が必要なのかという問題意識から今回の入試改革は起こったもので、その問題意識は欧米も日本も同じなのです。
 
 
日本の大学の多くはこの10年、定員割れを起こしています。そうした中で、大学の授業がネットで受けられ、学位という学習証明や履修証明の形態が急速に変化する社会が現実のものとなっている以上、大学という教育形態のあり方や大学の存続それ自体についても疑問が提起されている時代がやってきているのです。間違いなく、次の10年で大学の淘汰が起こります。

「同一日時・場所、同一問題」でないと公正でないという呪縛から解き放たれたテスト

そうした状況を前提として、今回の大学入試改革の中で提案された「高校基礎学力テスト」と「大学入学希望者テスト」を見てみると、この二つのテストの社会的な価値は大きく違っていくことになると思います。「高校基礎学力テスト」は日常的な高校での指導改善に役立てるとの趣旨でスタートした「育成のためのテスト」で、高校別に問題を設定してよいことになりましたから、「同一日時・場所、同一問題」でないと公正でないという呪縛から解き放たれたテストです。

そうした「育成のためのテスト」でありながら、AO入試が主力となる私立大学では間違いなくその結果は入学者選考の良い資料として活用されることになるはずですから、「育成のためのテスト」が大学入学者選考に使われることになり、もしも、そうなれば日本のテストの歴史を大きく変えることになるかもしれません。

その一方、「同一日時・場所、同一問題」で実施することにこだわる「大学入学希望者テスト」は、現在のセンター試験の枠を超えることができずに、「とりあえず記述問題を入れた」ということだけで「改革した」ということで決着がつくことになると思います。「大学入学者の選抜は厳正でなくてはならない」という考え方から脱却できずに、これからも進化が進むネットなどを活用した「カンニング」が横行することになることが目に見えているにもかかわらず、一発試験型で従前通りの公平性を実現・維持できると考えるのは、もはや戯画的なのですが、そうした議論は不謹慎なようです。

この三回の連載の結論として次のことを皆さんにご提案したいと思います。入学者選抜に関してぱ、時代の変化と教育目標の変化にあわせて、根本的な発想の転換が必要で、大学入学希望者テストについては、その限界・特質を認識した上で、テストで測定できる部分のみに特化し、他の選抜方法(調査書・面接・小論文等)との組み合わせを考え、下手な公平性の呪縛から解き放たれた大学入試改革が構想される必要があると思います。

そして、大学入試という入口論よりも、出口論、つまり、言い古された「入りやすく、出にくい大学へ」の改革を今こそ実現すべきだと思います。
 
 
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