
1.いきなり子どもをカメラで撮影
見学者や取材の対応について十分に気をつけていても、誰にでも起こり得てしまうのがカメラでの撮影です。事前にお断りしていても、いきなりカメラで「パシャリ」と、子どもや参加されている方を撮られる見学者や当日のボランティアさんがよくいらっしゃいます。心に響いていなかったのか、単に忘れていただけなのかわかりませんが、どちらにしても写真を撮られる側の気持ちが汲み取られてない気がします。子どもにとっては、「え、誰?何に使うの?」と怖くなったり、見世物のような気分になりますし、そもそも写真を撮られる事自体が嫌な人もいます。

(毎週一回行っている居場所活動の食事の写真。子ども食堂では、できなかった「子どもがのんびりできる」場所を目指してます。)
善意だけでは続かない「子ども食堂」
様々なボランティアで、よく議論されることですが、改めて整理したいと思います。
「私はこんなに頑張っているのに、誰も何もしてくれない!」
「なんでそこまでやらないといけないの?」
「自分はこんないいことをやっているのに、なんで誰もやってくれないか?」
「子ども食堂」の現場でもよくこのような声を耳にします。ボランティアという善意だからこそ、余裕がなくなった時、うまくいかなくなった時、組織がまわらなくなった時に、爆発する気持ちだと思います。
この状況を組織的な課題として解決しないといけないと思うと同時に、このような考え方をしてしまう今の雰囲気が、今の日本全体の社会の雰囲気と似ていると感じてしまいます。
「今の自分は、みんなみたいに頑張れていないから、子ども食堂に行くと責められる」
「自分は、頑張れない人間だから、ここにいる意味なんてないんだ」
「ずっと自分は我慢をして生きてきた。頑張っていきてきた。もう生きなくてもいいんじゃないか」
頑張っている人に比べ、我慢している人に比べで、限界を迎えた人が集まるのも「子ども食堂」です。善人でいられ続けられる人は、ほとんどいないと思います。子どもの中には、
「こんな(道徳に反する)気持ち持ってはいけない」
と考える人もいます。誰だって不条理なことをされたらその人を罰したくなる気持ちが生まれると思いますし、誰だって好きな人にパートナーがいても諦めきれない気持ちがあると思います。
だからこそ、善意だけでは、今後も「子ども食堂」は長くは続かないと思います。頑張る物差しは、みんな違います。子どもだって、大人だって、困っている時や苦しい時は、その気持ちを一人で溜め込むのではなく、頼れる人に発散することが必要だと思います。
ボランティアの世界では、「正しいこと」が優先されがちですが、みんなの気持ちをお互いに考え合って「楽なこと」「心地良いこと」が優先される時代になっても良いのではないかと思います。大人同士がちょっと息苦しい関係や空気を作り出してしまっていては、それはかえって子どもに過度なストレスになっているのではないかと感じるからです。
(「5月5日は子どものことを考える日」として八王子駅前で街頭募金を行いました。お金を集めることだけが目的ではありません。)
子どもの環境の変化はあったのか?
2017年に入り、「子ども食堂」が今でも全国各地で広がり続け、支援者同士の新しいネットワークもできると、社会で子どもを見守ろうとする空気感が確かに作られてきた感じがします。現場だけでなく、政策としても「子どものため」また「貧困の家庭の子どものため」と調査や仕組みづくり、現行制度の見直しが進んできたと思います。
一方で、子どもたちの生活や暮らし、気持ちにはどういった変化があったのでしょうか?「子ども食堂」の活動が本当に子どものためになっているのか、子どもの変化が見えづらい状況で、次のような言葉を聞くと少し違和感を覚えます。
「たくさん子どもが来ました」
「おいしくお腹いっぱいご飯を食べてくれました」
「子どもと高齢者とが仲良く交流できました」
現状、「子ども食堂」の近況報告や、ネットワークの会議などの情報交換の場においては、活動の結果としての子どもの姿や、過去の整理ができた当事者の声からでしか、子どもの大きな変化は見えません。メディアであっても、文字数の制限やプライバシーの点から、子どもの現在進行系での細かな困りごとやうれしいことを汲み取るには困難です。
「子ども食堂」のブームが来て数年が経とうとしています。きれい事だけ済まされたわけではなく、子どもも大人も、失敗や大変だったこと、悩んでいることはたくさんあると思います。そろそろ「寄り添うことが必要」「地域づくりが大切」というように理想や建前の言葉ではなくて、実際に出会ってきた子どもや大人たちが、どのような時に良い表情をして、どのような時にみんながんばろうとしていたのか、どのような時に居心地が良かったのかと振り返りながら、本音を出しても良い時期ではないかと思います。
自分たちの活動の悩みや困り事という本音の部分、さらには自分たちの活動を通してどう子どもが変わったのかという子どもの変化に気づかずにして、「子ども食堂」の活動の改善や持続、「子ども食堂」を超えることはできないと思います。
(開店日当日の準備の時に、突然バイクで「近所のおやじです」とだけ名乗ってご寄付くださりました。子どもへの思いがある大人が増えてうれしいです。)
それは、本当に「子どものため」になっているのか?
「子どものために」と子どもに言っても、それは恐怖です。よく親が子どもに「アナタのために、がんばっているんだから」というように、子どもからすれば、「そんな自分を犠牲にしてまで、私のためにがんばらないで」「別に自分は望んでアナタを親として選んだわけではないし、私を巻き込まないでほしい」となってしまいます。しつけや支配、管理の口実として「アナタのためだから」と言われるより、自然体でお互いのためになる関係のほうが結果的に「子どものために」なるのではないかと思います。
私たちの「子ども食堂」で必要としている人はこんな人です。
“正しいことを押し付けてくる人ではなく、どんな悪さをしても見捨てない存在、おとな”
年齢を重ねてどんどん子どもから離れる私たちだからこそ、本当に「誰かのため」と言っている時は「それは本当に誰かのためになっているのかな」と問い続けていきたいです。
【毎月500円から継続寄付「あすのば応援団」メンバー募集中!】
「子どもの貧困対策法」成立から満2年を迎えた2015年6月19日に、子どもの貧困対策センター「あすのば」が設立・誕生しました。「あすのば」は、①調査・研究とそのデータなどに基づいた政策提言、②全国の支援団体の活動が持続し発展できるような支援団体への中間支援、③子どもたちの自立のために物心両面での子どもたちへの直接支援、の3本柱を担います。また、子どもがど真ん中・「センター」のポジションとして、孤立し声を出せない子どもの声も大切にする運営を目指します。
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